沖縄の旅 (3)



 
"ひめゆりの塔 付近の駐車場にて"
 

さとうきび畑の下(壕跡)には今だに収容しきれない
  御柱が眠っているとか

「本国の捨石とされ凄惨を極めた沖縄戦 1945年3~6月」
島民は日本軍によって集団自決させられたり スパイ

呼わりされて虐殺された  撃たれた砲弾は680万発 
敵に見つかるからと泣いている赤ん坊は殺されたりして
「米軍より日本軍の方が恐ろしい」と云っていた

これらは南方の島々での戦いと共通している 最終的に
輸送路を経たれた兵士達の食料は現地調達だったという
 
考えただけでも哀れである  沖縄戦は最終的に両軍の死者、
民間人を含めおよそ23万人であったと云われています

沖縄戦に米国が投入した兵力は総兵力で54万8,000人、
日本軍が10万2,000人 
守備軍は この間内7万4千人の兵力を失っている

ひめゆりの塔


右端が古いひめゆりの塔
手前が絶壁状態の壕穴

ひめゆり部隊

法的根拠なく従軍看護要員として組織された沖縄師範女子部と 沖縄県立第一高等女学校の生徒である 職員と学徒の 看護隊で、297人のうち、職員16名生徒208人が戦死した   米軍攻勢で沖縄本島の南方へ追いやられた後、逃げ場の無い 彼女達に「部隊解散命令」が出された、彼女達は路頭に迷った 解散と言っても、既に回りは米軍、守ってくれるはずの軍隊から 捨てられたのか? 一方では解散命令はうら若き彼女達を死出の 巻き添えを食わしたくないという温情とも取れる しかし この解散命令後にガス弾攻撃を受けたり 自決等でほとんどが 戦死されています  ここ県南部の糸満市伊原(いばる)に野戦 病院壕(天然の長い鍾乳洞を伝って負傷者が運び込まれた) があったのである  1989年多数の死を悼み「ひめゆりの塔」が建立された  この碑の前に車10台も入りそうな垂直の円筒形の穴があって  その高さは家の3階ほど その底の部分に横穴があって  彼女達はそこで戦傷者の看護に当たった 食料はどうしたのか? 壕の百メートル先に米軍が馬の死体や残飯を捨てた上と同じ くらいのもう一つの穴があった   彼女達は夜ごとその穴をよじ登り 米軍の残飯を拾っては 餓えを凌いだ これは米軍が目と鼻の先に陣をはっていたことになるわけで  その心情はいかばかりだったろう 家の3階ほどある垂直の洞穴を よじ登った勇気と 恐怖と悲しみに戦慄の想いがするのである  ちなみに筆者は高所恐怖症 ! とてもその壁は登れない 

平和の礎


平和記念公園



  でいごの花が咲き 風を呼び嵐がきた       でいごの花も散り さざ波がゆれるだけ     でいごが咲き乱れ 風を呼び嵐がきた        ささやかな幸せは うたかたぬ波の花   繰り返す悲しみは 島渡る波の様   ウージ(さとうきび)の森で あなたと出逢い   ウージの森で 歌った友よ    ウージの下で(地下壕)千代にさよなら      ウージの下で 八千代の別れ   島唄よ風に乗り 鳥とともに海を渡れ       島唄よ風に乗り 鳥とともに海を渡れ   島唄よ風に乗り 届けておくれ         島唄よ風に乗り 届けておくれ   私の涙                     私の愛を     海よ 宇宙よ 神よ 命よ このまま永遠に夕凪を........

でいごの花

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パイン畑






「 2006年 夏 海はあくまで静かだった」