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..................... 奥三河、天竜への旅 .... (1) 「 2011 . 8 」 ....

「 心のふるさとは 奥三河 新城市 」


2011年8月下旬 夏の終わりの旅に出ました

於ふうの悲しみ 

天正3年(1575)5月、武田信玄のあとをついだ武田勝頼は西へ勢力を伸ばすために
重要拠点となる長篠城を1万5千の軍を率いて包囲攻撃しました

その長篠城址に寄りました ここは徳川、武田両氏の争いに巻き込まれた、
奥平家の悲しい歴史があるのです 新城市の駅北の方になだらかな山が
連なっていますが その山の奥に「作手村」と言う所があります

 
当初城主奥平氏は武田氏に属していましたが、勝頼の代に徳川方に寝返ったのです 
奥平貞昌は家臣「日近貞友の娘於ふう(16歳)」を妻と偽り 末っ子の仙丸(12歳)
 
と共に武田に人質として差し出していたのですが 武田側は裏切りの見せしめとして
この二人を 鳳来寺で処刑してしまいました( 貞昌の妻は家康の娘亀姫 )

処刑場で「何か申し残すことはないか?」との問いに「今度生まれ変われるならば、
畜生に生まれ変わりとうございます 畜生ならば正直に生きられますから 人は騙し
合わねば生きてはいけないのでしょうか 人は畜生よりも浅ましい生き物にございまする」と
二人は毅然として死に赴いたとかです

月の宵 城から流れる笛の音は! 

新城の隣駅 野田城(旧伊那街道)から少し入ったところに野田城はあります。
数百人の手勢の野田城は、元亀4(1573)年3万ほどの武田軍による水攻めにあい
なすすべもありませんでした

城に立て篭もる兵の中に村松芳休という笛の名手がいました 夜毎笛を吹き鳴らし
城から流れる笛の音は 敵味方 信玄でさえも楽しみにしていたと言われます

ある夜、笛の音に誘われた信玄が姿を現したとき、鳥居三左衛門の放った弾丸が信玄に
命中しそれが原因となって信玄が没したというのですが、結核をわずらっていたと言う説も
あって定かではありません、この事件後すぐに武田軍は野田城から撤退しています



愛知県 奥三河の板敷き川 (宇連川支流の乳岩峡)



" 別名 板敷川"


私は新城市に住んでいました 奥三河は自然と歴史の宝庫です
中でも一番好きなところが 宇連川(うれがわ)の上流「乳岩峡」です
火山の爆発時に溶岩が流れたのでしょう川底が平らになっているので 
板敷き川とも呼ばれ この時は長雨の跡で緑色でしたが 普段は
マリーンブルーの透き通った空の色のように本当にきれいな水色です




”乳岩峡”



"ここも板敷き川の続きです"

湯谷温泉の歴史は古く、1300年前から開らかれていた 伝説によれば、鳳来寺の開祖、
利修仙人により発見されたと言われている 



”古民家風の蕎麦所”
五平餅がおいしかった



" 湯谷温泉の名物「 五平餅 」"


新城市鳳来町の阿寺(あてら)の 七滝へも行ってきました
阿寺の七滝(あてらのななたき)は、愛知県新城市の阿寺川にある滝。
滝および周辺は国の名勝および天然記念物に指定されて日本の滝100選の一つです
礫岩の断層にかかる7段の滝となっている事から、七滝と名付けられたとか
上から2番目・5番目の滝壺には深さ7メートルの甌穴がある
陰陽師安倍晴明が若い時に滝で修行したという伝説があり
晴明が使ったという井戸が現存する



" 白い川底が平らです"





" 乳岩峡の下流に位置しています"
"湯谷温泉の宿"





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