noishuban1

My Little Journey in Germany

"バイエルン王国へのいざない(3)"


ノイシュバンシュタイン城
(新しい白鳥の石の城)

この城はドイツ南部 バイエルンの王 ルードヴィヒ2世が建設した城です
彼によって建てられたのは この城と山麓のリンダーホフ城,ヴェルサイユ
宮殿を模した ヘーレンキームゼー城の合計3つである この白鳥城

は17年の歳月をかけて 工費200億円を費やして建てられたのでした
が これは建設予定の三分の一に過ぎません 王が亡くなってしまった
ために 工事は中断されたのです ルートヴィヒ2世は フランスのルイ

14世の太陽王にあこがれていたため 月の王と呼ばれていました。 
王は生涯を豪華な城の築城にあけくれたため、バイエルン王国の財政
危機を招いた王として評判がイマイチの王でありました 但し一説には

(国費ではなく すべて私費で建築されたとも言われています)


写せない場所から撮ったものです

( 王の 青年時代は 日本の明治新政府設立当時であり 当時ドイツには
産業革命で強大化した イギリス、フランス等の列強の勢力が怒涛の様に 
押し寄せて来ていて、南部のバイエルンのような小さな国にとっては 国家

存亡の危機に直面していた時代でありました そんな時領主になった彼は
悲運の人であったと言えましょう  鉄血宰相ビスマルクの政治力でプロイ
センを中心としたドイツ帝国の統一がなされようとした当時、プロイセンや

オーストリア両強国の狭間にあって 彼こそが ドイツの中小の諸邦勢力を
集結して ポーランドの片田舎から起こってきたプロイセンの勢力に 断固
対抗すべきであるという 領民の期待を一手に受けていたのでありました。


若きバイエルンの王 ルートヴィヒ2世の勇姿


ところが 肝心の王が政治嫌いで城作りに明け暮れ 当時人気の高い
ワーグナーをパトロンのように城に呼び寄せて 歌劇に陶酔していたのでは 
領民としてはたまったものではありません バイエルンの人々はこの王の事を

プロイセンのビスマルクに対して 築城のための資金を提供してもらう代わり
にドイツ統一の権限を容認してしまった王として 劣悪な評価をしていたのです

しかし結果的に見れば 彼の行動によって バイエルン王国はプロイセンから
の戦火を免れることが出来たのでしたし、領民に多くの利益をもたらしたのです

王は列強の勢力覇権争いや 政治権力争奪のむなしさを知っていたのです


城の内部の広場 ここから中に入ります

ミュンヘン政府が 莫大な資金を使って 城を建築する王に 「王は精神的に
おかしいのでは」として 王の権利を剥奪したとしても無理からぬ事だったのでは
ないでしょうか これ以後世界が覇権を争う帝国主義の動きへと進むと同時に

彼の行動は現実と瞑想の世界のなかで混沌としたものになっていったのです

彼の心のバランスが崩れ始めた頃に 建設にとりかかったのがこの城でした
ただ彼がこの城に住んでいたのは たった172日あまりだけだったのです



ミュンヘン政府は4名の精神科医を城に派遣し 王はうち3名の医師から 
精神病と診断されました  この結果、彼は政府ミュンヘン近くのベルク城に
監禁されてしまったのです。かつて王が愛したこのベルク城で、窓には鉄格子 

扉には 覗き穴が付けられて監獄の中の囚人のような扱いを受けたのでした。
そんな扱いを受けても王は静かに平静を保ち礼儀正しかったといわれています
この事からしても 王の覚悟の上を察知する事が出来るのでした この当時の 

国際情勢から見て このような時期に政治的無関心な王を 為政者として頭に
置くことは国家の危機であり 政府としての苦策であったと言われているのです


" 王の寝室 "

既に40歳になっていた 1886年 6月13日(大日本帝国憲法発布4年前)幽閉
されていた王は夕方になって「散歩に行きたい」と 医者のグッテン博士 同行の
もとに そぼ降る雨の中 湖水を散歩したと言われている 午後11時過ぎ、二人は

湖で水死 体で発見されました。 「グッテン博士」の顔にはカキ傷が残っていたが、
王の遺体にはそれらしきものは見当たりませんでした 護衛もだれもついておらず、
王の死因は謎のままでした  彼は散歩の途中で突然走りだしたと言われています

城の完成を見ないまま 精神鑑定書に"不治の病"と署名され亡くなったけれど 

今でも死因は 暗殺説、自殺説、心臓発作説、逃亡説 事故説  等不明
のままです 王の葬儀は首都のミュンヘンにて盛大に行われ、聖ミヒャエル教会
.................に埋葬されたと言う事です。



バイエルン王国の紋章

実はこういった国庫の財産を使い込んだといわれる建築の数々は王の私的財産
から使われており、当時王族の反対派政権であるルッツ政権が王位を剥奪したい

目的があって 国を破綻させたという理由を作り 政権を奪取したと言う説もある
のです 王はそういった 汚い権力争いを充分過ぎるほど知っていたが故に

このような逃避の道をえらんだのでしょう............... 


城の上部から見下ろした風景

この断崖の上に建てられたこの城は 夏は入場するのに予約が必要です
でないと 2時間待ちもザラだそうですが 是非一度は訪れてみてください
マリエン橋からみた城の全景は本当に優美で美しく ドアーのノブにまで 

彼が愛した白鳥の姿で飾られているのを 私は深い思いで見てきました
彼が生存当時 国家の損失として 王を敬遠してきたバイエルンの領民は
いまでは 年間を通して訪れる 世界中の観光客によって投じられるお金

によって 莫大な利益を与えられているのです このような事実を天国の
王はどのような思いで見つめておられるのでしょう きっとその当時から
城の役割と 王としての領民への思いを 巡らしてたのかもしれません (-.-);

これこそが本当の意味での "私なりの領民への想いなんだよ"...........ってね!

彼が王様ではなかったならば 偉大な作家、哲学者、芸術家になっていた
だろうと言われています。 たった一人、政府の息の掛っていなかった医師が

診断したように 彼は心は病んでいたけれど決して精神病ではなかったのです
彼の人生はその方法でしか生きられなかった彼なりの生き方だったのでしょう


観光客を乗せて 城まで運んでくれる馬車
値段が高いので乗らなかった!

ドイツ在住のお友達から 次のようなメッセージが届けられました。

ルードヴィッヒ二世についての文章、読ませていただきました。やっぱり男前ですよね!
彼は今でもドイツ(南部、バイエルン)の人気者で、彼を主人公にしたミュージカルなど、

一年中上演されています。「天才と狂気の共存」というのが、今でも彼に対する評価
みたいです。ビスコンティの『ルードヴィッヒ二世』もとても興味ぶかい作品でした。

主演の俳優が肖像画などで見る王の面影そのままでシビレますよ。というものです
これを伺って私はほっとしています。

アラブのどこかの国のどなたかのように 別の意味での狂気の沙汰はいただけません
 自己の権力維持を固執することによって 何の罪のない国民が悲しい思いをするからです。

バイエルの王 ルードヴィッヒ二世様は本当にステキな方だったのだと思いたいのです


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